密やかな幻視

2014年から制作を続けている作品群の舞台は、沖縄本島東南部からフェリーで十数分の所に位置する久高島という島である。琉球の創世神アマミキヨがまずこの島に降り立ち、国づくりを始めたという。真っ青な海に囲まれ、眩しい日差しの中を植物がうねるように生い茂る、周囲8キロ程度の小さな島である。

日本は自然が豊かな国だ。温帯に属し、森林、水源に恵まれ、古来よりその自然の中で汎神論的な思想が育まれてきた。仏教などの体系化された思想が諸外国から伝来する以前、日本には各々の土地の自然を崇拝する自然信仰が根付いていた。神殿などの概念もまだない時代、人々は自然の中で滝や岩、巨木、そして”超人的な力を感ずる場所”を手つかずのまま崇めていたと思われる。そしてその超人的な何かが人々にもたらす感覚は、神と呼ばれるようになった。しかし信仰の純粋さは、国の発展とともに徐々に失われていく。


今回主なモチーフになった久高島には、今も立ち入り禁止の聖地がある。昭和の時代に途切れてしまったが、そこでは島の女達による祭祀が執り行なわれていた。大きな岩も、木も何もない。物体として祀るものは何もないのである。そこにはただひとつの”場”があるのみで、その特別な場所で女達は神の存在を感じていた。おそらく彼女らには見えていたのだろう。かつての日本人が、飾り立てる事なく自然の力を受け取り、神を感じ取っていたのと同じように。


月の満ち欠けと同期するように動く自分の体のリズムに気付いたのはいつ頃だっただろうか。遥かに離れた存在だと思っていた遠い宇宙と、女である自分の体が深く結びついていることの不思議。見えている世界が少し変わった気がした。それをどう表したらいいのかわからないまま芸大に入学し、以降私はずっと自然のもつ得体の知れない力のようなものを追い求めてきた。さびれた神社の奥の山で、誰もいない静かな森の中で、真夜中の黒い海を前にして、時には包み込むように穏やかでありながら時には畏れるほどの厳しさで人間に迫って来るあの不思議な感覚。何かが確かな形として存在している訳ではないのに、全身で誰かの呼吸を感じるような独特の気配。そういったものを探しては日本中を旅し、フィールドワークを重ねながら資料を集め、文献なども参照しながら、自分の感じた自然のもつ力を画面に落とし込むことを目指してきた。


絵画というものはとても不思議な媒体である。その枠の中に入れば非現実を現実のように見せる事も、現実を非現実のように見せる事も出来る。それは絵画という装置が作り出す錯覚であり魔法でもある。限られた世界のようで実は作者にとっても観賞者にとっても自由な世界を絵画は与えるのだ。作者が体で感じ取った事を視覚という分野に凝縮し、観賞者に追体験を与える方法として私は絵画を選んでいる。私にとって絵を描くという事は、言葉で説明のつかない事を人に伝えるための、ひとつの翻訳作業のようなものである。

きっと私はこれからも、自然の中で迫って来るあの特別な感覚を求めて旅をしては絵を描いてゆくのだろう。かつての人々が畏敬の念を感じてやまなかった神の姿を、彼らと同じように捉えられる日が来るまでは。

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