Traveling Alone

2018.6.1-6.12 at VOU

作品を作り始める前に、よく旅に出ていた。まだ自分が知らない場所が見たかった。日常的に目にするものとは違うものが知りたかった。沢山の見たいものがあった。

まだ見ぬ「見たいもの」を求め、行き先を選び、旅に出、「見たいもの」を見、満足して帰る。そうして、すべてを見た気になっていた。

しかし、それは本当にすべてだったのだろうか。確かに「見たいもの」は見た。では、「見たいと思わなかったもの」は? あるいは、そこにあったとしても見えていなかったものは?

人は視界に入るものすべてを同時に等しく認識することができない。眼の焦点を合わせた対象、すなわち「見たいもの」を見る時、同時にその他の大半を見落としている。つまり人は、その視覚の構造上、「見たいもの」しか見られないと言える。

視覚の構造によって、蛙の目には動いている物だけが見え、静止したものは見えない。

視覚の構造によって、昆虫の目は人間にとっての不可視光線を見ることができる。

この世界には常に「見えたもの」があり、かつ「見えなかったもの」がある。しかし、「見えること」が身体の構造によって制限を受けている以上、「見えなかった」ことは「存在しなかったこと」と同義とは言えない。それはただ、その眼の仕組みでは「見えなかった」に過ぎないのかもしれないのだから。

古来、旅は人を変えると言う。旅の前の日常と旅の後の日常に挟まれたつかの間の非日常を通過することで、人は見聞を広め、成長する。ある意味イニシエーションにも似た「旅」という行為の中で行われる主目的は「観光」である。そう、言い換えれば人は文字通り「見ること」を糧に発展してきた。そこで「見えたもの」がたとえ、視覚構造によって制限された世界の断片でしかなかったとしても。

「私は本当にすべてを見ているのか」

旅を糧に制作を続けながら心の片隅に兆していたそんな疑念を無視できなくなった今、私は改めて「見えること」「見えないこと」について考えている。

旅の中で「見えたもの」と、「見えなかったもの」=「見え得たかもしれないもの」。

それらを描くことで、この世界の未だ知られざる側面を、眼には見えない何かの存在を、表現できるかどうか。

本展はそのささやかな試みである。

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