Untold Symbol

2017年

沖縄のある離島で一夜を過ごした日、ぼうぼうと茂る背丈ほどの草木に挟まれた道を歩いた。うっすらと月明かりに縁取られつつも、黒々とした影に塗りつぶされた植物たちは、今にもこちらに覆いかぶさってきそうで、とても恐ろしかった。中世の頃から日本では「黒」は境界を表す色だったという。集落の終焉は暗闇であり、その向こう側はいつも異界だった。あの離島での夜、私は自分を取り巻く植物たちの、日中の光の中ではうかがえなかった、黒い一面を見てしまったような気がした。離島の野生を離れても、当然のように植物はあらゆるところに存在している。鉢の中や道の脇、塀で囲われた庭。極めて身近な居場所にあっても、彼らには彼らの生があり、本質的にはあの離島での「恐ろしいもの」たちと変わりはない。決して彼らは私たちのために綺麗な姿をしているわけではないのである。

古来、人は植物との関わりにおいて、ただ育成を楽しむ対象として植物たちを利用していた訳ではなかった。人を取り囲むもっとも身近にして、しかし人の理の外にある存在として、親しみつつも畏れを抱いてきた。

人間の原始的な信仰として、「自然」を始まりとするものがある。気象や動物、そして植物などを対象としたそうした信仰は地域規模で行われ、人間が社会を形成していく過程で徐々に淘汰されていった。

私は、人間が身の周りから何かしらの「超越的なもの」を見出し「神」と認識した結果生まれた信仰の、その対象の姿が知りたくて、フィールドワークを重ねながら周縁を探り続けている。その存在によって大勢の人間が行動を起こし、あるいは制約する対象。それほどまでに人の心を圧倒する超越的な対象である「神」とは一体何なのか。

「超越的なもの」を祀るには「畏怖」が必要である。「畏れ」からルールが生まれ、行動が作られていく。

そう、自らの存在を超えたものは、恐ろしい。

人間が植物を手なずけていく文化「園芸」の始まりを調べると、数百年も昔に辿りつく。

東西問わずその文化は現代にも引き継がれ、庭先や室内に様々な植物が飾られている。植物学が発展し、分類がなされ、その育て方や交配も研究が進んだ。人はより美しい種を求め、より人の環境に馴染んだ種を作りだした。そしてそれらに名を与え、人間的な性格付けを施し、象徴化し、物語に取り入れることで、植物を自分たちの文化の中に組み込んできたのであった。

しかし、発生から今に至るまでおよそ5億年もの歴史を持つ植物を、本当に人間は支配下に置けたのだろうか。

歴史上様々な宗教において「神」の真の名は語り得ないものとされてきた。また多くの文化では、真の名を口にすることで、その対象を支配下におけると考えられてきた。植物の学名命名法が確立されたのは今からほんの200年前、18世紀末である。しかし、勿論それ以前にも呼び名はあり、今でも国や地域によって、あるいはその用途によっても名称は異なり、時には学名でさえも変化する。つまり「名前」が先天的に与えられた確固たる自明のものではないのなら、私たちには人間が現れるより以前から存在している植物たちの本当の名を

語ることができない。我々はその名も知らぬなにものかと共存している、とも言えるだろう。

今も昔も同じように夜はやってきて、植物たちは呼吸をしている。暗闇の中に街灯の光で浮かび上がった花は、果たして美しいだけなのだろうか。

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