Hierophany

2019.4.2. – 4.14. at gallery morning

「ヒエロファニー」とは、宗教学者ミルチャ・エリアーデによって提唱された宗教学用語である。「目に見えない、人を超えた力を持つ、聖なる存在が姿を現すこと」を指す「ヒエロファニー」は、エリアーデによる造語であり、それは「聖なるものの出現」を意味するだけでなく、人が「聖なるものの現れ」を感じた物や場所といった対象をも示す広い概念でもある。たとえば前近代の民族宗教に見られる自然物への信仰は、ただ対象が大きな石や古い木であるから崇拝されるのではない。人がそれらを通して「目に見えない聖なる何か」の存在を感じ取るがゆえに、ただの石や木は崇拝の対象となるのである。数々の宗教に共通する本質を追求したエリアーデがとりわけ注目した民族儀礼「イニシエーション(通過儀礼)」の中においても、ヒエロファニーは重要な要素として位置づけられている。「イニシエーション」とは、「人生の区切りの時期に行われる儀式」である。その作法は民族によって様々であるものの、肉体的にも精神的にも「苦痛」を受け、「死」に近づくような形を取ることが多い。日常を離れた不安な環境の下、他人との接触を絶って叢林の暗闇で孤独に過ごし、食や眠りを断ち、身体を危険に晒し、仮死の世界に身を置く間に、“神や霊といった目に見えない神聖な存在”の顕現=ヒエロファニーを目の当たりにすることで、人は古い自分から新しい自分へと再生する。

このくだりを読んだ時、私自身にとってのイニシエーションは何だったのだろうかと考えた。人生における節目が希薄になった時代に生きている私は、大人と子供のはっきりした境界がわからないまま今日まで来た。私はいつ「大人」になったのだろうか? それはごく最近のことだったと思う。
この冬、自分の身には起こるとも思っていなかった「結婚」をした。まず感じたことは、家族との距離が変わった気がするということだった。イニシエーションは、当事者が生まれ変わるだけでなく、その共同体にとっても新たな関係性を受け入れるための儀式でもある。「親の戸籍から抜け自分たちの世帯を作った」ということが、おそらく私にとってのイニシエーションだった。

ではそこで私は、精神が更新されるほどの超越的な何か=ヒエロファニーには出会ったのだろうか?

その答えは「出会っていない」になる。日常を劇的に変化させるような神はいなかった。

確かに、現代に生きるとはそういうことではある。夜はすっかり明るくなり、神秘も聖性も私たちのもとから遠ざかってしまった。けれども私は、日常を超えさせてくれる何かに出会うことを期待していた。
振り返ってみると、それこそが今まで私を制作に駆り立てていた原動力だったことがわかる。私は「人を超えた力を持つ、目には見えない存在」を描こうとすることで、日常の外に触れようとしてきた。沖縄の御嶽や海も、夜に咲く道端の花も、過去の題材はどれもが私なりのヒエロファニーだった。切れ目なく続く日常の中で感受性を覚醒させ、新しい世界との境界を越え、自身の在り方をも変えてしまうもの。それが宿り、 顕現する場所、物。そんな自分にとってのヒエロファニーを探すため、私は作品を作っている。

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